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「聞きがき抄 北陸に生きる女」 著:井上雪

   最初に入った糸挽の部屋には、ノベ釜といわれる鉄釜にあふれるほどの繭を煮立てていた。掻きまぜて、ほぐれた糸の緒は数条あわせて後の枠に捲きとられる。室内にはもうもうと立ち籠めた湯気で、一種独特の繭を煮る匂いがする。そこに座ってつむぐ女たちの顔も服も一様に、乳白色の湯気にすっぽりと包まれ、時折窯を火からおろすたびに見える火色が美しい。ぐらぐらと煮え立つ大釜に百を超すと思う繭玉が、浮き沈み、やわらぎながら女たちの澱みなく動く手に従っている。繭糸はしだいにほぐれ、やがて夥しい褐色の蛹が現れる。それはまるで蚕が糸をはき出すように、音もなく縷々と立ち昇り、光を出すのだ。

   この日たった一人の織女が、黙々と白生地を織っていたのだが、生地は雪のように白く、いかにも侘びしい白山山麓のたたずまい表徴するかの如くであった。まもなく冬が来て、当然のように厚い雪の層にすっぽりとつつまれるこの薄暗い家の中で初めて外界に触れて生まれる白生地は、さぞ初々しく魂にしずもりを与えてくれることであろう。それはあでやかではないが、山家に育つ女の持つ素朴な艶がにじんでいるようでもある。そのさわやかな気品はそれを作った女たちの生きる身構えの精魂がにじんでいるからに相違いない。

​解説

 これは、昭和49年に随筆家の井上雪氏により書かれた加藤手織牛首つむぎの作業場の風景である。それから40年余りが経った今も、作品中とほとんど変わらない方法で仕事が続けられている。先祖が繋ぎ続けてきた白山市桑島に伝わる文化と伝統を後世に伝えていかなければならない。

​変遷

​ 賀の国白峰村(現石川県白山市白峰・桑島)一帯では、古くから麻織物と共に自給自足の繭を原料に手織りの紬が織られていた。江戸時代には牛首紬の名が広く知られ、ことに文化・文政の頃、各地で珍重されていたと伝えられる。

 正から昭和の初めにかけて、桑島集落内に工場の形のもの3ヵ所、家内工業的に各家庭で生産していたものを合わせて織機台数80~100台を数え、牛首紬の生産が盛んであった。加藤手織牛首つむぎもその中の一軒であった。

 東亜戦争中、生活必需物質統制令公布(1941年)による規制と食糧増産のため桑園は畑に転用を余儀なくされ、牛首紬の原料となる原糸の製造は絶たれ、牛首紬の生産は不可能となってしまった。

 かし、そのような状況の中、加藤三治郎(加藤手織牛首つむぎ3代目当主)一家が、僅少の山桑による自家養蚕により原糸を生産、多年にわたる困難を克服して牛首紬の生産を継続し伝統を今に引き継いだのである。三治郎の妻 志ゅんはその功績を称えられ、1978年黄緩褒章を授与された。

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